BBCニュースに、日本人のおっさんが出ていた。
いかにも日本の 労働者階級的な風体で、焚き火にあたり、「消息不明の家族を探すために自宅のあった付近を見に来た」と語っていた。おっさんのそばには肩を落とした中年男 性が2人佇んでいる。いずれも、わたしの日本の親父と同様の職業かと思われる服装。皆、同じように家族の消息がわからないのだという。
英語の字幕も出ず、同時通訳も追い付いていなかったので、連合いが「何?何してんの、このおっさんたち?」と訊く。事情を説明すると、「でも、泣いてないじゃん。なんか全然平気そう。うっすら笑ってるような顔さえしてる」と不思議そうに言う。
カメラのアングルが切り替わり、英国人リポーターが大写しになると、その背後で、画面の隅に小さくなった日本人のおっさんの1人が、ひっそりと手で目を押さえているのが見えた。
これがジャパニーズなんだよ。と言いかけてわたしはやめた。
閉じた襖の陰で泣く。などという日本人のDNAにこびりついた美意識は、西洋人には到底理解できないし、第一、彼らは画面の隅に消えそうになっている小さなものを注視するような人々ではない。
思えば、これは「愛着理論」のテーマの一つでもあった。
日本人は感情を出さない。出せない。効果的に出すのが下手だ。
しかし、だからと言って鈍感なのではないし、ましてやエモーショナルな障害など抱えているわけがない。日本人は、誰にも見えない形で、本当は誰よりも繊細に感じているのだ。
西 洋社会に来て日の浅い日本人には、「我々も西洋人のようにがんがん感情を表に出し、がんがん自らの考えを主張できる、一回りスケールの大きい人間になるべ きだ」などと考え、いきなり突拍子もなく声を裏返して「ハ~イ」と言い出す人もいるが、成人後の人生では日本より英国在住生活のほうが長くなってしまった わたしなどからすると、今回のようなことが起こると、日本人の遺伝子に刷り込まれた“クール/アンクールの基準”(モラル。と呼ばれることもあるが)の美 しさに打たれずにはいられない。
日本人は、声を裏返して変わる必要はない。そのまま、淡々と、粛々と行けばいい。
ジャパニーズ・ディザースター情報依存症ともいうべき、一日中テレビのニュースを見ている部外者はここ英国にもい る。うちの連合いが癌スターになった時と同様、「日本のご家族は大丈夫でしたか」といきなりわたしに電話してくる、数日前までは街で会ってもわたしを無視 こいてた英国人もけっこういる。
他者のドラマは、部外者の人生にもドラマを注入するものであり、人間という生物は、何らかのドラマに関与しているような気分になるのが大好きなのである。
と いうのも、たいていの個人にとって人生というものは、多少のドラマでもないと生きて行けないぐらい退屈で淡々として面白くないからで、それ故に、他者の身 に起きた災難を自らも関わっているドラマに見立てて、やけにキリキリと反応して盛り上がったりして「フェスティバルなう」にしてしまう。
が、そうした「フェスティバルなう」は、日本人の伝統的美意識の対極に位置する。
ぜひ、淡々と、粛々と行っていただきたい。
それが日本人のビューティーだ。
海外の人々と同じようにテレビやネットで地震情報を見ている、全然被災してない日本人のみなさんには、どうか淡々と粛々と行っていただきたい。
日本はこれから復興せねばならない。
そう思えば、災害情報漬けになったり、ネットに「メルトダウンだ、ぎゃああああああ」などと書き込んだりして舞い上がっている場合ではない。
復興では、被災してない人々が、被災した人々の分まで働かねばならぬ。
それは寄付や折り鶴といったテンポラリーな行為ではなく、それぞれの平常の持ち場でのリアルな持久戦だ。
だからこそ、そう気づいている人々には、「フェスティバルなう」に背を向け、いつも通りに寝て食って働いていただきたい。
Business as usual.
白いハチマキに筆で書くなら、平常心。
それが日本人のクールであり、ビューティーだ。
クライシスにわたしの母国の庶民が生きる糧にするのは、飯や物やセックスやそれらを得るための暴力・暴動ではなく、 取り乱さないことをビューティーとする美意識なのだと、そしてそんな庶民は世界的に見て非常に稀なのだと、外側から見ているわたしは今はっきりと知覚して いる。
クライシスに国を動かすのは、政府ではなく、外国からのサポートでもない。
国の中にいる絶対的多数の人間であるところの庶民である。
庶民のクール。
庶民のビューティー。
日本人は、国内にいる人々が憤っているほど腐ってはいない。
THE BRADY BLOG:日本人の粛々 (via takaakik)